税理士法人総合経営サービス:セミナー

« 2009年2月 |

どんな職業に就きたかったか(人間万事塞翁が馬)

私が中学生の時、担任の先生から「将来どんな職業につきたいか」という宿題を出されたことがある。

一体自分は何になりたいのか、宿題という切っ掛けをもらって、真剣に考えることになった。

頭はたいしたことはないが、幸い体力には自信がある。

人とうまくつき合うことは、へたくそな上、気を使うのは面倒。特に女性とは歯車が合わないし、いっそのことそばにいない方がいい(昔の話)。人に使われるだけで一生を終えるのもどうかと思うし、できたら組織の上の方がいい。そうかといって、会話をするのはへたくそだし・・・

そうだ、それなら船長がいいのでは?パイロットだと英語もペラペラでないといかんだろうし、そんな能力は自分にはないし、それほど勉強もしたくない。やっぱり船長だ(「どくとるマンボウ航海記」(北杜夫)を読んだ影響か?)。船には女はいないし、船の上では船長が一番上だ。話も海の上だから必要はないだろうし、その上世界中に行くことができる。

そんな理由で船長を目指すことになった。それには東京商船大学に入ることが近道であることがわかった。

高校一年の担任の先生に、今の成績なら商船大学は大丈夫だと太鼓判を捺され、勝手に合格したと思っていた。

当時、東京商船大学は、国立大学2期校で、それほど難しい大学ではなかった。

根が単純というか、アホなので、努力はしたつもりではあったが、どこかに油断というか自分が落ちるはずがないという根拠のない自信を超えたうぬぼれがあったようだ。

家にはお金はないので、国立大学しか行くことはできない。入学試験を受けるにも1校何千円という受験料がかかる。

当時、国立大学は1期校、2期校とわかれていて、受験日がずれていた。船乗りになるには1期校の東京水産大学を受けることも可能ではあったが、受験料がもったいないのでやめた。

普通は、国立大学を受ける人は、私立も何校か受けた上で、本番に望むのだが、私の家庭にはそんな余裕もないし、鼻からそんな気もなし。何の根拠もないのに自信だけはあった。2期校の東京商船大学一校しか受けないのは私しかいなかった。しかし、あえなく「桜散る商船」。

落ちてもほとんどショックはなかった。

なぜなら、当時松本深志高校3年生の7割が浪人であることと、翌年は確実に受かるし、浪人ならばやりたいこともやれそうだと能天気に考えていた。

浪人一年目、予備校に行く金はないので、図書館の2階(俗称:浪人部屋)に通った。

朝は新聞配達をし、昼は不動産屋の事務職、夜はビアガーデンの店員と母親の真似をして、一日3つの職をかけもちしたこともある。

働くことは、小学校3年生の納豆売りを皮切りに田植え、稲刈り、声がかかれば何でもやった。働くことは好きだった。

高校生の時にサッカー部に所属していたが、国体には出場できなかった。そこで国体を目指し、社会人のサッカーチームに所属し、フォワードとして県では優勝したものの北信越大会であえなく終了。

さあ、受験勉強に本腰を入れるぞと思った時は、すでに秋となっていた。

それでも、自分は受かると思っていた。

それで受かれば楽しい充実した浪人時代を過ごしたことになるのだが、浪人一年目の時も、2期校の商船大学一校だけを受けた。

人生あまくはなかった。またもや不合格。2敗目。

この時、それまでの人生で一番のショックを受けた。後の人生を考えると、そんな大げさなものではないのだが、その時はとにかく世界で一番バカな人間だと思った。

図書館の2階で勉強していた仲間には何人も東大にすら合格している人もいた。

それに較べて、自分は2期校一本にしぼった商船大学すら不合格。

受験で涙が出たのは先にも後にもこの時だけだ。

2浪目、行くあてもなく図書館の2階で引き続き受験に備えるつもりでいた。

そんな時、一浪して東大に入学した同級生に町で偶然出会した。

彼曰く、「お前みたいなのは予備校に行った方が伸びるよ!」

浪人1年目の時、彼は予備校に通っていた。その頃、彼からもらったハガキの返事に、「俺は青白きインテリより真っ黒く日に焼けた土方を選ぶ。(私はその時、工事現場で土方のアルバイトをしていた)」と書いたことを覚えている。

アリとキリギリスではないけれど、彼と会った時、正しく彼がアリで、自分はキリギリスだと思った。やるべき時にやるべきことをやっていたのは彼だった。彼から予備校の詳細を聞くことができた。当時、長野県には予備校も塾もなかった。東京の予備校もほとんど試験が終わっていたが、2校残っていた。

予備校にも入学試験があるとはとんでもないと思ったが、一校目の駿台予備校すら落ちてしまった。自分は予備校すら受からないバカだったんだとつくづく思った。予備校すら受からないのに、大学など受かる訳がない。なんとか残りの一校に辛うじて受かった。その時のうれしかったことといったらない。

まるで、商船大学に受かったような気分であった。

母親も住み込みの仕事に転職し、支援してくれることになった。

「孟母三遷」という教えがあるが、肉体労働しか知らない母親流の支援には、感謝しても感謝しきれるものではない。

今思い出しても涙がこみあげてくる。

そして、この時のくやしさと2浪して合格までなんとかこぎつけた自信と、2浪したという劣等感がその後の人生に非常に大きな影響を与えた。

1期校の東北大学工学部と防衛大学に合格し、やっと22敗にこぎつけた。

こんなアホでもやればなんとかなるという思いが、その後の弁理士や税理士を目指すという目標を平気で立てることにつながったのだと思う。

この時どん底に落ちこんだ状態から這い上がる訓練ができたと思う。

防衛大学が受かった時点で、商船大学を受けることはやめていた。防衛大学では、給料がもらえる上にパンツまで支給される(?)とのことであった。これまた根っからの能天気であった。

その後、東北大学工学部に合格。防衛大学は訓練が大分厳しいようだし、将来のことを考えたら、卒業後の就職は東北大学の方が良さそうだとこれまた能天気。船長になる夢は簡単に消え去ってしまった。まさか卒業時、最悪の就職難の時代になるとはつゆ知らず。そうかといって、商船大学に合格して進んだ場合でも、卒業時、低賃金の外国人船員の時代になっていたので、船長になれる人は非常に少なく、丘の上のカッパになる可能性もあった。(現在、頭だけはカッパになってしまった。)結果として、何の因果かその後造船所に勤めることになるわけだが、船にはその後いろいろな所で関わることになる・・・。

人間、万事塞翁が馬 

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